人工無脳『笑うヤカン』のための考察。脳というデバイスについて

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 人工無脳の前に人工知能とは何を指すのかについて考えたい。
何をもって知能と呼ぶのか? それは論理的思考のことである。
ならば、人工知能の定義として必ずしも人間とのコミュニケーションがとれる必要はないのかもしれない。
では論理的思考とはどのように形成されるのだろうか?
それを解き明かすためのアプローチは、当然ながら人間の脳あるいは思考活動の仕組みを研究するということだろう。
 脳はニューロンという神経細胞の膨大な数の集まりである。ニューロンは樹状突起でシナプスを作り情報伝達物質を伝えあっている。このアルゴリズムはそれほど難しくない。単位データとそれらの連結というデータリンク構造だ。(Webのハイパーテキストリンクもそうだといえる)
外部刺激によってシナプスが活発に情報を伝達する。それらが思考と呼ばれるものなのではないだろうか。
ではニューロンとシナプスのデータ構造を作ってデータを流し込めばそれがやがて論理的思考を生み出すのか?
そうはならないと考える。なぜなら人間の脳髄は五感というインターフェイスを伴って初めて機能するものであるからだ。

 赤ちゃんに何かを教える時、声だけで物事を覚えさせることはできない。
置かれた環境の中で、聞き、見、嗅ぎ、味わい、触れる。赤ちゃんは全ての感覚を受動的かつ能動的に動員する。そして「わたしはママだよ」「これはバナナだよ」と話しかけられ、徐々に言葉と感覚が関連付けられていく。自身の動作については能動的な触覚という位置づけだ。
仮に受動、能動両面の精神活動(つまり脳内の電気的な伝達反応)を第六番目の感覚として位置づけたとすると、脳というのは全六感の関連付けを行うためのデバイスにしか過ぎないのではないだろうか?

 「バナナ」という一般名詞を単位データとして保存したとする。それを「果物」「甘い」「黄色」といった別の単語とリンクさせたとする。「果物」という単語からは「リンゴ」にリンクしているかもしれないし「甘い」は「砂糖」、「黄色」は「ひまわり」や「キリン」にリンクしているかもしれない。人間は「バナナ」という単語から「キリン」を連想することができる。データが大きくなればなるほどニューロンネットワークらしい状態になってくると予想することができる。
だが単語をどれだけ連想できたとしても、五感を伴うことのないデータは虚無だ。バナナとは何かという本質を定義することができない。バナナを説明する文章と関連付けることはできるがそれは単なる文字の集合であり本質とは違う。

 バナナを食べようとしたとき、人は手に持ったときの感触、皮をむいたときの匂い、口に含んだときの甘さを感じることができる。
美味しいのか不味いのか、どう関連付けられるかは個々に違いがあるかもしれないが、ともかくバナナという物体と感覚の関連付けが行われる。
これこそが記憶だ。記憶とは五感と不可分のものなのだ。
プラトンは理性で認識することによってのみイデア(本質)に至ることが出来ると考えた。
これが正しいと仮定するならば五感を記憶する(関連付ける)ことこそが本質に至る道である。
つまり逆説的に五感というインターフェイスがなければ本質に触れることはできないということだ。

 人工知能を作ろうとしたとき、最初にアプローチするべきなのは脳そのものではなく、五感に相当するインターフェイスをいかに実装するかが肝要なのであろう。
それでもまだこうした記憶の蓄積と外部刺激があれば論理的思考が生まれるのかというと、やってみないとわからないとしか言いようがない。脳内ペプチドは脳以外の臓器にも存在する可能性があるし、失敗の可能性を挙げるのは簡単だ。しかし少なくとも創作活動などといった高度な精神活動が生まれる土壌として五感の記憶の蓄積が不可欠なものだという想像は不自然ではない。
では人工無脳とは何か?
人工知能の到達点が論理的思考という内面的な機構であるのに対し、人工無脳とは第六感覚の出力インターフェイスという位置づけを与えることができるのではないか。いわば脳の言語野にあたる部分を担うものだ。
つまり人工知能と人工無脳とは、脳を模倣することを目的としたデバイスのための機能の種別であると言えるのかもしれない。

 先日『笑うヤカン』は1対1の会話を目指すと書いたが、実を言えば完成形態として理想としたのは『アキハバラ@DEEP』に登場するユイだった。(同作品に登場するより高度な「クルーク」に実装されている4つのAIについてはその概念があまりに観念的にすぎてオレでは参考にならなかった)
ユイは基本的にはカウンセラーなので目的としてはELIZAに近いのかもしれない。が、作中では元の人格である結の会話パターンを学習させたトーカ(話し手)としての機能のほうがより完成度が高いものとして描かれている。
夢のようなAIだが、現実的には手動学習ではそこまで自然な会話ができるほどのパターンを網羅できるとは思えない。完全辞書型の人工無脳は時代遅れであると言わざるを得ないであろう。
人工無脳を作るということはどのようにデータを蓄積するかではなく、正しい文法の文章を破綻ない文脈で出力するロジックこそが本懐なのだと考える。
データは、本質を持たない記憶の模倣であって構わない。
たとえ出力される言葉が虚無であったとしても、人間が受け取った瞬間には本質が与えられるはずだからだ。
これもまた夢のようなAIではあるのだが、延々と返答パターンデータを打ち込むよりはアプローチとして正しいと思っている。

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このページは、マピロが2009年1月22日 17:21に書いたブログ記事です。

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