ネタバレ全開。
初めて『となりのトトロ』を見たとき、田舎にはもしかしたらこんな妖怪じみた生き物がいるのかもしれないと思ったものだ。
それはトトロではないかもしれない。でも突然の突風や暗闇のなかに気配を感じたとき、ネコバスやまっくろくろすけのような何かが出たのかもしれないと想像することは怖くて楽しかった。
ジブリが20年以上の昔、日本に仕掛けたこの異化効果は既に失われてしまったように思う。
都会人はもう闇雲に田舎に憧れたりはしない。
三鷹に行けばネコバスにだって乗れる。
ファンタジーは死んでしまったのだろうか......?
否。
ファンタジーが死ぬのは人間の想像力が失われたときだけだ。
ジブリは『借りぐらしのアリエッティ』で再び、世界に魔法をかけようとしたのだと思う。
身長10センチの小人が住む世界。
人間の住居の床下に住みつき、水、ガス、電気を少しずつ"借り"て暮らしている。
その種族には「人間に見られてはいけない」という厳しい掟があった。
14歳の小人の少女アリエッティは父親と一緒に、初めての狩りならぬ借りに出かける。
生活必需品を手に入れるために、危険を冒して人間の居住空間へと。
小人と人間は姿形こそ同じだが、まったく違う世界に住んでいる。
ただ小さいというだけのことが、世界の有り様を変えてしまう。
その世界では水は表面張力で粘性を帯び、音は空気圧を増して迫ってくる。
アリエッティの視点で描かれる借りの道のりはまさに冒険そのもの。
キッチンなど絶望的なほどに巨大な空間だ。それは人間(観客)にとって見慣れた生活空間が、恐ろしくも滑稽な大舞台になる瞬間だった。
そしてアリエッティは、心臓病の少年、翔に姿を見られてしまう。彼はその日に家にやって来たばかりだった。
間もなく自分は死ぬと思っている翔は、自分が初めて他者を守れる存在になれるかもしれないとアリエッティに「怖がらないで」と言い、なんとかコンタクトを取ろうとする。しかしそれは無理な相談だ。
小人と人間は違いすぎる。翔は本心からアリエッティを助けようとするが、全ての人間がそうではないのだ。
アリエッティの母親を捕まえて瓶に閉じ込めたハルさんのような人間もいる。いや、その方が多数派だと思う。
ほとんどの人が小人の意志などお構いなしに捕まえようとするのではないだろうか。ハルさんは決して悪人ではない。誰もがもつ好奇心が発揮されただけだ。いや、もしかしたら好奇心そのものが悪いのかもしれないが...。
そんな人間に見つかったなら、姿を消すのが当然だ。
「人間に見られた小人は引越しをしなければならない」
この掟があるからこそ、小人たちはほそぼそと生きながらえているのだろう。
母親を翔と一緒に助け出したアリエッティは、別れを悲しみながらも小人の掟を守る。つまり一家全員で引越しをしてゆく。
翔にしてみれば、わずか数日のできごとだったが、それは人生観を大きく変える大事件だったことだろう。
観客は翔に感情移入する。
翔とアリエッティの交流はわずかに留められている。その代わりに小人たちの世界が濃密に描かれた。なぜならこの映画は小人の世界を見せる作品だから。
観客は小人の視点で世界を見る。健気に生きるその姿を守ってやりたいと感じる。
そして翔と同じように小人たちとの別れを悲しみながらも、もしかしたらこの世界のどこかに、ひょっとして自分の家の床下にも住んでいるかもしれない小人たちに想いを馳せる。
そして現実世界に立ち返り、それまでとは違った自分の世界を手にいれたことを感じる。
それは田園風景の広がる田舎の幻想ではなく、大都会でも感じることができるファンタジーだ。







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